2011年8月19日金曜日

三つの星のアリス 2;にたにた猫と鞄の奥さん

……――

アリスはズキズキする頭をさすって、むっくりと体を起こしました。もっとも、それはちゃんと、しっかり、自分の頭を点検してからの話です。何しろあまりに強く頭を打ったものですから(これは彼女の表現を借りると、『加速性の衝突による驚愕性のビックバン的衝撃』といったものでしたが)、自分の頭が何個かに割れていない事をじっくり確認しなければなりませんでした。幸い、自分の頭は、しっかり首の上に乗っかっていました。

「それにしても、あの悪戯っ子の猫ちゃんの顔ったら!なんだか、にたにたしてたわ!にたにた猫なんて、この世にいるものかしら。いやになっちゃう!」
(そりゃぁ、なんといっても、"チシャ猫"だからねぇ)
「え、なに?今、どこかで声がしたわ…?」
(そりゃぁ、声はどこかでするものだろうねぇ)


辺りを見回しても、声の主は見当たりません。耳を澄ましましたが、相変わらずしんとしています。アリスはきょとんとしてしまいました。それにしても、まったくどういう訳だか分かりませんが、先ほどとはまったく部屋の様子が違います。あんなに陰気でこわごわとしていた家なのに、なんだかとても愉快な気分がして来るのです。それに彼女は今ようやく気が付いたのですが、ぎしぎしとうなり声を上げていた、吹きさらし状態の木の床に、いつの間にやら真っ白な、ふわふわした絨毯が敷かれていたのです。また、先ほどお爺さんが上っていた二階へ続く暗い、ゆるやかなカーブの階段が、いつの間にか素晴らしい、素朴だけれど温かい飾りつきのものになって、きらきらと輝いています。

「こんな素敵な家だったかしら!?いえ、どう思い出してみたって、あの壁の絵はもっと恐ろしかったはずだわ!あんなに爆笑している顔の絵なんて、おかしな話ね」
(そりゃぁ、おかしいから笑っているんだろうねぇ)
「え?」
(絵だろうねぇ、そりゃぁ、絵だろうねぇ)

一向に姿を現そうとしない声の主に対して、アリスは何だかむかむかしてきました。ちなみに付け加えておくと、この女の子はこうした不思議な変化に、どこかわくわくさえしていたのです。先ほどまであんなに怖かった自分が、今になってわくわく、ついでにウキウキしているのは変な話でした。ところが彼女はそう考えることが当然のような気さえしていました。だから、ふくれっ面をしながら間延びのした声の主を捜そうと立ち上がった時も、実は好奇心で一杯だったのです。

「姿を見せてくれないかしら、声の主さん。だって、顔を見ないで話をするって、失礼な事なのよ」
(失礼な話は顔を見ても出来るものだからねぇ)
「え??なにがなにって?もう一度言って」
(『もう一度』)
「…あん、もう、あなたの言ってること、めちゃくちゃだわ!」
(違うよ。ぼくは『もう一度』と言ったんだよねぇ。めちゃくちゃだなんて言ってないんだよねぇ)

先ほどのアリスは、心のどこかで好奇心で一杯だと言いました。でも、そんな彼女も、声の主の支離滅裂さにいい加減うんざりしてきました。
彼女はふと、こんなことを考えました。『まるで、後ろの席でいっつも鉛筆を噛んでいる男の子にそっくりよ!いっつも眠たそうで、声を掛けるとすっごく恥ずかしがって、にたにたするだけ。何か聞いてみても、なぁんにも会話らしい会話が出来ないのよ。これ以上会話してたら、私、おバカさんになっちゃいそう』。彼女は階段にすとんと腰を下ろして、両手で頬を突き、じっと黙りこくりました。すると相手も、まるで消えてしまったように気配がなくなって、この廊下は再びしんと静まり返ってしまいました。

ですが、アリスは見逃しませんでした。先ほど頭をぶつけた小さな机の右側の引き出しがゴトッと、小さく揺れたのです。この瞬間、アリスは謎の声の主が、あの悪戯な子猫だと考え付きました(これほど奇妙な思いつきは、彼女自身がかつて無かったと断言できるぐらいです。でも、なぜかそうに違いないと思ったのです。)彼女はバネのように立ち上がると机に迫り、勢いよく引き出しを開きました。ああ、しかし、アリスの予想は大きく外れてしまいました。もっとも、七分の一だけは当たっていたのかもしれません。引き出しの中から飛び出して来たのは、なんと七匹もの子猫でした。しかも全員、にたにたと不気味に笑っているではありませんか。それに変なのは、この子猫たちがふわふわぐるぐると、まるで風船のように宙を漂っていることです。

それだけで済めば、まだアリスもそれほど驚かなかったのかもしれませんが、それだけでは済みませんでした。アリスの予想はもう少し外れていたのです。言うなれば、もう半分の十四分の一だけ当たっていたのです。彼女が七匹も子猫が入っていた引き出しをまじまじと観察していた次の瞬間、今度は左側の引き出しがゴトッと動いたような気がしたので、今度はそちらを開けてみました。すると、なんと、こちらからは七匹の親猫が飛び出して来ました。そしてこちらのにたにた顔は、子猫よりもずっと風格が感じられます!しかし、にたにた顔に風格なんてあるものでしょうか。

「こ、こんにちわ、みなさん!ごきげんはいかが…かしら」
「さして」
「どうということは」
「ないねぇ」
「どうしてって」
「ごきげんは」
「聞いてみたって」
「答えやしないからねぇ」  

と、宙に浮いている子猫七匹が、かわるがわる答えます。アリスは自分の頭の上にぽんと乗った子猫をぽーんと手で押しながら、今度はもっとはっきりとした目的を持って、こう挨拶しました。この挨拶には、親猫七匹が、やはり同じように、かわるがわる答えました。

「私はアリスと言います。猫ちゃんたちも教えて。」
「そう言うならねぇ」
「教えて」
「あげようか」
「ねぇ」
「きみの」
「名前は」
「アリス」

とんだおバカ猫ちゃんたちだわ!とアリスは思いました。でも、思っただけで正解でした。もし口に出していたら、この後、弾丸のようにどたどたと階段を下りてきた、大きな鞄を持った奥さんにくどくどと小言を言われてしまったでしょうから。このでっぷりと太った奥さんは、猫たちのご主人様なのでした。奥さんは何がそんなに楽しいのか、何がそんなにうれしいのか、とにかく猫たちの一万倍はにたにたと笑いながら、こんな歌を歌っていました。

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